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曲直瀬道三が「日本医学・中興の祖」と称される理由とは?(写真:marilyna/iStock)
「日本医学・中興の祖」と称される戦国の名医・曲直瀬道三。彼が日本の医学界に遺した多大な貢献とはどのようなものだったのか。『小説 曲直瀬道三――乱世を医やす人』の著者・山崎光夫氏と、日本の漢方の第一人者で戦国期の医学事情に詳しい秋葉哲生氏に、道三の医学の真髄を語ってもらった。その続編をお届けする。
前編:信長、秀吉を診察し、家康に医術を授けた名医

日本医学・中興の祖

――曲直瀬道三は「日本医学・中興の祖」と称されていますが、具体的にどのような点で功績があったのでしょうか。

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山崎:前回に話しましたが、私は道三を「日本医学の祖」ととらえています。そのうえで考える道三の功績は、望診(ぼうしん)したうえで、舌診(ぜっしん)、脈診(みゃくしん)、腹診(ふくしん)の3つの診断を経て、それで病名を定め、病態を決め、そして薬を処方する、これを「察病弁知(さつびょうべんち)」と言いますが、現在では当たり前に行われている入念な診断と的確な治療を定着させたのは、曲直瀬道三なんです。

それ以前は「僧医」が大半で、僧侶が医師を兼ねていたのです。要するにお坊さんは知識人で医学書なども読めますから、たとえば信者がお寺などに来たときに体の不調を訴えると、当時の医療の定本であった『和剤局方』などに書いてあるとおりの処方をしていました。それは、症状を聞いて医学書に書いてあるとおりの診断・処方をするもので、患者を入念に診て診断する医療ではなかったわけです。

秋葉:鎌倉の時代は僧医が中心で、臨済禅を伝えた栄西などが代表ですが、彼は『喫茶養生記』などを書いたりしています。源実朝の二日酔いをお茶で治したといった話も伝わっていますね。

昔の医師は僧侶の格好をしている者が多かったのですが、これには理由がありまして、僧侶だと中国へ渡りやすかったという事情もあったようです。仏教を究めるためにという口実であれば、比較的容易に中国への渡航が許された。ですから医学を学びたい者も僧形をしていたのです。それがなくなるのが江戸・享保年間の後藤艮山からで、彼は束髪にしていましたね。


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