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尾崎健一さん(1928年生)は、フィリピンのルソン島から生還した数少ない旧陸軍兵士のひとりである。尾崎さんは通信学校の同期兵とともに、1944年12月にルソン島に上陸した。同期兵は200名、そのうち生還できたのは尾崎さんを含めわずかに10数名であった。拙著『戦争の大問題』に尾崎さんのご体験を収めている。

フィリピンでは「マニラ大虐殺」だけではなく、同様の事件が数多くあった。日本兵がゲリラに襲撃され、その調査と報復を兼ね尾崎さんのいた部隊は小さな村落に向かった。

「攻め込んだときに集落の若い男子十数人ほどを拘束し、その後は何の取り調べも行わず全員を銃殺したと聞きました。たぶんゲリラたちはいち早く逃亡し、銃殺されたのは無関係な一般の農民ではなかったかと思います」

「大勢の日本軍兵士が部落の家屋に土足で侵入し、家具や建具を靴で蹴って破壊したり、タンスや整理箱などをひっくり返し、かき回して貴金属類その他、欲しい物を手当たり次第に略奪しました。私が家屋に入ったとき、屋内は衣類その他が滅茶苦茶に散乱していました。日本軍の乱暴狼藉、非道は他の地でも同様に行われていたと思います」

将校は家屋に入らなかったが、制止もせずに黙認していた。「戦争とはこんなものか!」と初めて討伐戦に参加した尾崎さんは驚いたという。

別の匿名兵士はこう証言している。

「落ち着けそうな村落を見つけて2日ほどいると、必ずアメリカ軍の激しい爆撃が始まる。現地人が通報するからだ。その地でゆっくり落ち着きたければ、現地人の若い者を見つけたら殺すしかない。これが日本軍の論理だった」

極限の状況下に置かれた人の集団は、たやすく鬼畜となる。これが戦争の真実だ。

死亡率79%の戦場

両陛下は犠牲となった現地の人たちが眠る「無名戦士の墓」を訪れた。

フィリピン人の犠牲者は100万人を超えるともいわれる。両陛下にとってフィリピン訪問は、皇太子時代の1962年以来の2度目の訪問となる。1962年の訪問時には、現地で犠牲者の遺族と交流したこともあった。

一方、終戦までに投入された日本軍の兵力は約63万人、フィリピンでの日本人戦没者は約50万人である。フィリピンに送られた日本人のうち8割近い人が現地で亡くなった。その多くは病死、餓死、自殺であったといわれる。

少年通信兵である尾崎さんは、フィリピンの首都マニラの通信隊で任務に就いていたが、マニラへ向かって進攻するアメリカ軍に押されるように部隊は山岳地帯へ後退した。しかし、山岳地帯に移動しても米軍の猛烈な空襲は続き部隊は壊滅した。部隊はその場で事実上解散、兵士は散り散りになって山中に逃げ込んだ。山中に食糧はない。

山の中では、絶望的な状態の中でたくさんの仲間が死んだ。死因はアメリカ軍の迫撃砲による戦死、飢餓、病気による死亡、発狂死、手榴弾による自決だった。味方同士、食糧を奪い合っての死者もいた。


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