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11月17日の東京ヴェルディとの試合後、FC町田ゼルビアのサポーター(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

サッカーのJ2リーグで優勝争いを演じたFC町田ゼルビア。

最終節の東京ヴェルディ戦で勝利していれば優勝を引き寄せることができたが、引き分けとなり4位で今シーズンを終えた。10月にはサイバーエージェントの傘下に入ることが発表され、J2での躍進とともに大きな話題となった。

J2リーグのFC町田ゼルビアの社長を務めている大友健寿氏(筆者撮影)

「J1ライセンスの交付がないとわかっているなかで志を高く持ち続けた監督・選手たちには脱帽です。褒められた話ではありませんが、J2クラブで選手人件費は下位クラス。結果を出してくれた監督や選手たちに引っ張られるのではなく、支えていきたいです」

ゼルビアで選手経験があり2018年4月から社長に就任した大友健寿は今シーズンの戦いをこう振り返る。

2004年にはJリーグは夢のまた夢だった

大友健寿は少年時代は町田で育ち、社会人になった後に町田ゼルビアで選手としてプレーしていた。

筆者と大友は2004年に埃まみれの土のグラウンドでボールを追ったチームメイトでもある。あの頃はJリーグなんて夢のまた夢だった。

大友は東海大学を卒業後、2000年に浜松町にある製造業企業に入社、営業として汗を流す毎日を送っていた。社会人となっても東海大のOBとチームで、週末にフットサルの大会に参加をしていた。

サッカーの夢を諦めきれなかった大友が町田ゼルビアに加入したのは2000年の年末、23歳のときだった。当時、ゼルビアの存在を知らなかったそうだ。

「ゼルビアには『FC町田時代の同級生の木町孝などがいるよ』と誘われて入りました。丸山竜平(現・町田ゼルビア強化部長)も同じ時期に入りました。当時は監督もいなくて、選手兼監督の方が全部やっていたんです。

カテゴリーは東京都の(社会人サッカー)一部リーグで週末の試合だけやっていました。試合会場に集まった時に『今日は11人いるかな?』という感じの草サッカーチームだったんです」

当時のゼルビアには前身のFC町田のOBしかいなかった。ただ、FC町田は育成年代では全国でも屈指の強豪で、そのOBはスキルも高い。

2004年に当時クラブの事務局長であった小森忠昭の尽力で横浜FCから竹中穣が選手兼コーチとして加入、上のカテゴリーに上がるために練習日が増え、トレーニングの負荷もハードになった。当然ながら辞めていく選手もいた。

当時のFC町田ゼルビア(筆者撮影)

残業をしてきた会社員の選手が22時頃に「まだ週明けなのにこんなに追い込んで1週間もたないよ!」と叫びながらフィジカルトレーニングに励んでいたのを覚えている。

筆者が加入したのもこの時期だ。

「大学時代を思い出して、練習って普通はこんな感じだよなって、私にとっては当たり前に感じました。タケさん(竹中)が入ってこなかったらゼルビアを辞めていたと思います。タケさんの加入前の半年くらいはいろいろあって練習には行っていなかったんです」


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