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「みなさんは、すべて結び付けたいんでしょうけど……」。8月14日に行われた夏の甲子園2回戦。津田学園(三重)を7対1で下した済美の中矢太監督は、言葉を選びながら記者からの質問に答えていた。何しろ、記者から矢継ぎ早に浴びせられた問いは、次のような調子だったのだ。

「上甲野球を見せることができましたか?」
「上甲監督のとき以来の甲子園2勝ですが?」
「上甲監督と明徳義塾の馬淵監督(中矢監督の高校時代の恩師)の野球の違いは?」

中矢監督は、丁寧に答えていた。だが、その顔に笑顔は見えなかった。

かつて上甲正典監督に率いられて、甲子園の舞台に済美が登場したのは2004年のこと。創部3年目にしてセンバツ初出場初優勝の快挙を成し遂げた。

その夏の甲子園でも済美は勝ち進み、決勝で田中将大(当時は1年でベンチ外、現ニューヨーク・ヤンキース)のいる駒大苫小牧と壮絶な戦いの末に敗れた。2013年センバツは安楽智大(現楽天イーグルス)を擁して準優勝。5試合で772球も投げたことが話題となった。

その上甲は2014年9月に病のため、帰らぬ人となった。

済美を率いる中矢監督は何を変えたのか

2016年7月、監督に就任した中矢は、上甲監督時代にコーチ、野球部長をつとめていた。就任わずか1年での甲子園出場。済美は4年ぶりに聖地に戻ってきた。確かに、そこにはメディアが飛びつきたくなる要素がある。

「上甲野球復活!?上甲イズムを継承して済美が甲子園で大暴れ!!」

取材陣は、こんなふうに目を引く見出しを付けようと、それに沿ったコメントを集めたり、映像を作ったりしがちだ。

しかし現実には、以前の指揮官の方針を継承するだけでは、決して勝負には勝てない。

なぜかと言えば、高校野球なので当然のことではあるが、4年の間に選手は一人残らず入れ替わっている。相手もまた同様だ。これまでと同じやり方では、チームは強くならないし、ライバルに勝つことも難しい。本来であれば、「むしろ、どこをどう変えたのか?」に注目すべきだろう。中矢監督はこう語っている。

「上甲監督のときと比べると、練習時間は1日あたり、1時間から1時間半は短くなりました。その分、やり方を工夫していますし、選手が自主的に練習する時間を増やしています」

済美は愛媛県大会5試合でチーム打率4割という破壊力を誇る。3番打者の亀岡京平は打率5割5分。4番の八塚凌二は打率4割5分。選手たちの下半身は目立って太く、"力でねじ伏せる"を身上とする上甲野球が息づいていることは間違いない。

しかし、エースの安楽に最後までこだわった上甲とは対照的に、中矢は投手陣を巧みに使い分けている。初戦で140キロを投げるエース・八塚が4点を奪われると、7回からサウスポーの影山尭紀を登板させて、悪い流れを断ち切った。

2回戦の津田学園戦では、7回まで被安打1と好投の八塚に代えて右サイドスローの栗田智輝をマウンドに送った。投手陣は余力を残したまま、3回戦進出を決めた。2試合3本塁打の亀岡をはじめ、打線の破壊力はすさまじい。

上甲の急逝、その後の不祥事を乗り越えて甲子園に戻ってきた済美。8月19日に3回戦で対戦する盛岡大付(岩手)をはじめ、強豪との対戦が待っている。「上甲野球」の呪縛にとらわれるのでなく、中矢監督が率いる新しい済美がさらに躍動する姿を見てみたい。

(文中一部敬称略)

元永 知宏 スポーツライター

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もとなが ともひろ / Tomohiro Motonaga

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。直近の著書は『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、同8月に『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)。19年11月に『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長。

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