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そんな時代は、日本社会の歴史の全体を見ると、ほんのこの前まで続いていたのです。

ところが、第2次世界大戦後、エネルギーの中心が石油へと変わると、燃料としての木材の価値は失われてしまいます。

木材が燃料であり建築材であった20世紀の半ばまでは、物の価値という意味で見れば、山は価値の流れの上流にあったのです。ところが、燃料は海外の石油や天然ガス、建築材は熱帯地域や北方の木材が使われるようになると、すべては輸入ですから貿易港のある海からやってくることになりました。価値は海から山へばかり移動し、山は価値の流れの下流、しかも最も末端になってしまったのです。

価値の末端にあるため、山村は過疎化した。

近代以降の日本の変化を、山の木という「物の価値」の変化に関連付けてみると、山村の過疎化の理由がよくわかるのではないでしょうか。

要は、山村の人々には売るものがなくなり、海の方向にある街から買うばかりになってしまっては、経済が回るわけがないのです。

こうして経済的に疲弊したことが、山村の過疎化の真相だと思うのです。

山の文化が滅ぶのはもったいない

文化は一度滅ぶと消滅してしまいます。

山村に人がいなくなり、村が滅んだとします。その後、再建をしようとしたとき、朽ち果てた家は建て直せますし、崩れた道や水道、電気などのインフラは重機(じゅうき)などを使って再整備できます。そして、人が再びそこに集まって住めば、村の形は復活させられるでしょう。山の森林の整備、谷川の管理なども、人手があればなんとかなります。

けれど、かつてあった村の文化だけは、2度と戻りません。日本の古い山村には1000年を超えて人が暮らしてきた例もまれではありませんが、そうした歴史ある村々の貴重な文化は再生できないわけです。

たとえば、山の棚田には、江戸時代から続いてきた歴史的な経緯があります。農業用水を整備するために積み重ねてきた知恵があり、それが村落コミュニティのルールという形で残っています。

そもそも農業用水をつくるには、最初、川に堰(せき)を築いてから、水田をつくろうとしている近くまで幹線となる水路をつくらねばなりません。川に堰を築くにせよ、大きな幹線水路をつくるにせよ、大勢の人が力を合わせないと不可能です。

専門の技術者がきちんとした設計をして、やはり現場の専門家がしかるべき指揮をとって、村の人間が総出で工事を行うことで、農業用水路は初めて完成します。

しかも、日本中にあるどの山も川も、1つとして同じものはなく、その山や川に応じた知恵を絞らないと農業用水路はつくれません。農業用水という村のインフラを整備することは、まさに村という社会そのものの価値を示しているものであり、文化の力なのです。その文化に裏打ちされて、村は成立します。


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