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4人の芸術家が、それぞれの世界との向き合い方を開陳する。それが徹底的であればあるほど面白いと思った。だから、それぞれがそれぞれのパートをしっかりとつくっていくという方向にしたいと思った。

そこから、長いやりとりが始まった。

僕の頭の中には、92年のベネッセハウスのような進み方は避けたいという思いがあった。建築だけが先行し、美術は後に残され、与えられた空間をただ使うのみ。それだけはいやだった。美術と建築が互角にがっぷりと組み合っている場所を目指していると何度も岡野さんに話し、そこは絶対に譲らなかった。

全体の空間づくりに関しては、3つの方針を挙げた。

1つ目は、建築とアートによって“ひとつ”の美的体験の場所をつくること。それも、分断されていない連続した空間であること。建築と美術が分かれていないこと。同じ時間を生きていること。

次に、作品はパーマネントであること。永遠であること。長く続く場所であること。

そして、3つ目は個々の作品が孤立した空間を持ち、適度に離れていること。独立した、別の論理、もしくは尺度、ないし美意識によって構築されていること、各作家の文法の純度を守ること。

これらはときに矛盾するものであったが、すべてが体現されている状態を求めた。実はこれは、「家プロジェクト」の手法の延長上にある考えである。三次元空間上で、美術と建築が出会い、接合するのである。

安藤建築の文脈のなかで

安藤さんが「対話」と称しているやりとりは通常の対話ではない。なかなか激しいものだ。安藤さんの個性は際立っているが、一方で関係を大事にする。それは施主はもちろん、仕事にかかわるそのほかの人々や、時には建物の建つ場所の自然や歴史という場合もある。人であればどんな関係が持てるのか、何をしたいと思っているのか。あるいは環境であれば、その場所とどんな関係が結べるのか――。そういったことを気にする。安藤建築は、個性をただぶつけているわけではなく、案外、相手との関係の中でつくり出されている。ただ、その解釈や進めかたは安藤さん流ということだから、やはりかなり安藤さんのペースにあわせる必要がある。

僕は、ベネッセハウスをつくりはじめた91年から安藤さんとのやりとりを続けてきたのだから、安藤さんの「対話」は何度も経験してきた。独特の関西弁の言い回しも手伝って、大体が安藤さんの思い通りのペースで進む。

それでも、面白いものを見せたときはこれまた子どものように無邪気に喜ぶ。安藤さんが言う“面白い”とは“人並み外れたもの”や、“想像を絶するもの”“まったく新しい発想のもの”なのであり、それを自分のことのように喜ぶ。とにかく飛び抜けたものが好きなのだ。その姿を見ると、やはり天才の持つ独特な直感が働くのだろうかと思う。僕はそのときの安藤さんが好きである。そして、見たものをいつの間にか自分のものにしてしまう図々しさや柔軟さもあって、そこも大したものだと思う。


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