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中野:ここは重要ですよね。以前、人を殺した若い犯人が、「なんで殺しちゃいけないんだ」みたいなことを言っていたことがありました。その犯人が影響を受けたのが、哲学者が子ども向けに書いた本だったそうです。それを中途半端に理解して、「別に殺しちゃいけないなんて根拠はないんだ」と思ったらしい。いくら理屈を教えても、それだけだとませガキは、すぐ「根拠なんかなくていいんだ」といった調子のポストモダンになってしまう。

佐藤:その点こそ、近代思想の大きな弱点ではないでしょうか。従来、自明に正しいと信じられてきたことを理性によって問い直し、「非合理的な迷信だ」「特定の枠組みのもとでのみ成立する虚構にすぎない」などと言い出す。「なんでもあり」に陥る危険は、つねにあるわけです。

柴山:ただ議論や判断の部分は点数にはなじまないし、成績をつけるというのは難しいんじゃないでしょうか。

モラル(倫理)とディシプリン(規律)

中野:道徳の教科化をめぐる議論の混乱は、1つにはディシプリン(規律)とモラル(道徳)をごっちゃにしていることにあるのではないかと思うんです。

柴山 桂太(しばやま けいた)/京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。専門は経済思想。1974年、東京都生まれ。主な著書にグローバル化の終焉を予見した『静かなる大恐慌』(集英社新書)、エマニュエル・トッドらとの共著『グローバリズムが世界を滅ぼす』(文春新書)など多数(撮影:佐藤 雄治)

学校で教えるべきことは実は、正か邪かといったモラルというよりは「朝礼ではきちんと整列しろ」とか「8時半までに登校しろ」といったディシプリンなのではないか。もちろん、人間にとって本当に必要なのはモラルなんだろうけれども、でも近似値としてディシプリンを教えれば、モラルも身に付くという面もある。

柴山:確かにディシプリンは子どものときに身に付けるべきものでしょうね。一方、モラルのほうは、小学校でやるべきことなのかなという気もするんです。思想的な話は、ある程度人生経験を積まないと理解するのが難しいですから。

古川:フランスの社会学者エミール・デュルケムも『道徳教育論』の中で、「学校が教えるべき一番大事なものは規律の精神だ」と述べています。欧米でも日本でも学校は社会のディシプリンを反映し、また学校が社会のディシプリンを創出するという面があります。

中野:古川さんが指摘された、近代国家を担うための教育という面から考えても、より直接的に効くのはモラルよりディシプリンだという気がするんです。実は近代国家が学校で教えたかったのはそっちのほうではないか。例えばよい兵隊を作るというときに大事なのも、ディシプリンでしょう。

佐藤:兵士に求められるのは、モラルからの脱却です。初めて戦場に行った兵士は、敵に向けて銃を撃つとき、どうしても上に撃ってしまう。同じ人間を殺すのが本能的に怖いからです。その本能を理性でコントロールし、「祖国のために敵を殺す」というディシプリンを優先させて、ようやく優秀な兵士になれる。

すなわち国家は「敵を落ち着いて殺せる兵士は、そうでない兵士より理性的であり、人間として優れている」と主張する必要があります。でないと安全保障が成立しない。ところがこれは、「人を殺すのはいけない」というモラルの否定にひとしい。


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