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しかし、1913年に京浜電鉄は海老取川の東岸まで線路を延伸。渡し船で海老取川を渡る必要はなくなる。それまでの穴守駅は廃止され、東岸に“新”穴守駅が開設された。

“新”穴守駅は埋立地に開設されたため、周囲に人家や商店はなかった。京浜電鉄は利用者を生み出すべく、沿線開発の必要性に迫られた。こうして、京浜電鉄は大型の集客施設の建設を計画する。

1909年には、「いだてん」に描かれた羽田運動場がすでに開場していた。運動場の開設には文芸評論家の押川春浪や、押川の友人で文芸評論家ながら京浜電鉄に勤めていた中沢臨川が尽力した。

押川と中沢は天狗倶楽部という野球チームを結成しており、そのために野球場の建設を要望した。押川と中沢の働きかけは実り、羽田運動場は野球場として開場する。

野球場の周りには、競馬場・水泳場・海水浴場なども整備された。一躍、“新”穴守駅は一大レジャーランドと化した。

海水浴場の開場式には、大隈重信が出席。大隈と懇意にしている縁から、樺太探検家として名を馳せ、後に南極点到達を目指した白瀬矗も同席した。白瀬の話を聞きたがる人は多く、開場式には来場者が詰めかけて黒山の人だかりができるほどだった。

五輪予選会の会場に

幸先のいいスタートを切った羽田運動場だったが、オリンピック関係者から思いも寄らない話が持ち込まれる。1912年のスウェーデン・ストックホルムオリンピックに日本が初参加することになり、関係者たちは予選会の会場を探していた。

オリンピック関係者たちは、都心から近くて交通の便がよい羽田運動場に白羽の矢を立てる。

だが、京浜電鉄経営陣は「陸上専門の競技場に転換したら、その後の運営で採算が取れなくなる」ことを理由に二の足を踏んだ。オリンピックという大舞台を諦めきれない関係者たちは、京浜電鉄と粘り強く交渉を続ける。

結局、「予選会以降の大きな競技会をすべて羽田運動場で開催する」という約束を取り付けたことで、京浜電鉄は首を縦に振った。こうして、野球場は1周約400メートルの運動場に転換。1911年には、予選会が開催される。しかし、その後に大きな競技会が羽田運動場で実施された形跡はなく、約束は反故にされたようだ。

羽田運動場は数奇な運命をたどったが、京浜電鉄は“新”穴守駅一帯をレジャーランド化すること以外にも、さまざまなビジネスで地域を振興し、それで利用者を増やそうとした。


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