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現在、首都圏を走る多くの鉄道は電車だが、当時は汽車が主流だった。私鉄は出自が路面電車だったこともあり、早い段階から電車を走らせていた。しかし、電車を走らせるには電気を生み出し、電車まで送り届けなければならない。それには発電所や変電所、送電線といった大規模な施設が必要になる。

電車を運行するためだけに、大規模な施設をつくることは採算的に難しかった。そこで、私鉄は一石二鳥のビジネスとして、電車の運行で余った電気を沿線の企業や家庭に販売するというビジネスを編み出す。

京浜電鉄は、明治半ばから宅地化が進んでいた大森で電気の供給を開始。それを皮切りに、電力事業を拡大した。こうして、電力事業は鉄道事業と並ぶ、京浜電鉄の屋台骨となる収益の柱に育っていく。

京浜電鉄の沿線開発とは別に、“新”穴守駅の周辺で鉱泉が掘削された。鉱泉が沸き出したことで、鉱泉旅館が軒を連ねるようになる。日帰りではなく宿泊を伴う参詣者が増加し、穴守は料理屋・待合茶屋・芸者屋の三業がそろう、東京でも有数の三業地になった。

すでに存在していた蒲蒲線

隆盛を極めた穴守駅一帯だったが、沖合に建設された空港がその後の運命を大きく左右していく。

1945年、敗戦により進駐軍は海老取川より東側の埋立地を接収。進駐軍の目的は、ハネダエアベースを掌握することにあった。GHQは72時間以内に退去するように命令を出す。海老取川以東には、穴守駅を含む多数の商店や旅館、住宅があった。そうした事情は斟酌されなかった。家や店を追われた住民たちに補償はなく、傍若無人なふるまいが強行される。

こうして穴守線の電車は、海老取川の西岸までしか運行できなくなった。当然ながら、日本人が海老取川の東側に立ち入ることはできなくなった。

進駐軍はハネダエアベースを接収するだけではなく、アクセスを担う穴守線にも目をつけた。戦前期より複線だった穴守線は、進駐軍に片側を接収されて単線化した。また、進駐軍が接収した片側は1435ミリメートルから1067ミリメートルに改軌させられた(その後、元の1435ミリメートルに戻された)。

わざわざ進駐軍が線路の幅を1067ミリメートルに改軌した理由は、国鉄の蒲田駅に穴守線の線路をつなげる意図があったからだ。現在、東京都は京急蒲田駅とJR蒲田駅を結ぶ蒲蒲線を計画している。約800メートル離れている両駅をつなげることが大きな課題とされている。ただ、進駐軍はそれをたやすく実現した。


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